羊の水海

ストーリー

2020年11月29日

夏の波紋

 大学の講義が午前中で終わり夕方のバイトまで時間が空いてしまった。
 見上げると雲ひとつない空の太陽は目が眩むほどの輝きを見せている。
 大衆食堂で山椒がひどく効いた麻婆豆腐を食べた後、本屋に立ち寄って文庫本を一冊購入した。どこか喫茶店にでも行って読もうかとも思ったけれど、そういえば僕の家の近くに大きな公園があるのだということを思い出した。井の頭公園という名前だけは知っている。
 半年ほど前に大学進学のために北海道から上京してきたけれど、いつの間にか大学とバイト先と自宅を行き来しているだけの日々を送っていたから、自宅の近くにあるにも関わらず井の頭公園には一度も行ったことがなかった。
 今日は幸い天気も好調のようだし、公園でひなたぼっこでもしながらバイトまでの時間潰しで読書に励もう。
 大学の最寄駅から吉祥寺駅まで移動し、南口から公園の入り口まで歩く。掲げられていたフロアマップを見ると、中々広い公園のようだった。
 公園に足を踏み入れて、ちょうど良く木々の枝が頭上に伸びていて日陰となっているベンチがあったので、そこに腰を下ろす。
 目の前には大きな池がある。そこの池には木の柵が取り付けられていて子供が誤って水の中に落ちてしまわないようにしている。
 僕は先ほど購入した文庫本を鞄から取り出して読み始める。書店の一番目立つところで平積みになっていたので、きっと面白いのだろう。
 風に吹かれた木々の葉擦れの音、子供のはしゃぎ回る声、せみの鳴き声。夏の音がする。
 ある程度本を読み進めていくと、ふと池の前の柵のあたりに誰かが立っていることに気がついた。
 黒いワンピースにアディダスの三本線が入った赤いスニーカー。長い髪を頭の上の方で束ねている。斜めに革製のショルダーバッグをかけている。服装的には僕と同じくらいの歳かとも思うけれども、顔が見えないのでわからない。
 ただ呆然と池を見ているだけのように見えるけれども、彼女は一体何をしているのか少し気になった。
 もしかしたら誰かと待ち合わせをしている最中で、今は約束の相手を待っているだけというのもあり得そうな話だ。
 僕が頭の中で彼女のことについてあれこれと妄想をしていると、彼女はショルダーバッグに手を入れて、そこから物を取り出して池の中に捨てた。それをひとつずつ何回も繰り返し行っている。
 流石にこれはただ待ち合わせをしているわけではないらしい。
 読みかけの文庫本をベンチに置き、僕は彼女のいる場所に小走りで駆けて行った。
「何してるんですか?」
 女性は振り返り僕の方を見る。そのとき僕は初めて彼女の顔を知った。真っ白な肌。大きな切れ長の目、美しい曲線を描く鼻に控えめな唇。
「え……っと、物を捨てていたんだよ」
 彼女はばつが悪そうにそう言う。
「物?」
「そう、化粧品とかさっき買ったキャンディーとか」
「なんでそんなことをしてるの?」
「なんだか自分が嫌になって……。自分の物をひとつ捨てるたびに、今の嫌な自分をひとつずつ捨ててる感じがして落ち着いてくるの」
 彼女が節目がちに言った。
 池に目をやると、水中の深くにいくつか物が沈んでいるのが見える。これはきっとただの物ではなく、この人の一部なんだろう。この人が生活をしていく中で生まれた不純物。
「良くないストレス発散方法だと思うよ。公園にとっても迷惑だし、何より歪んだストレスの発散は悪影響だって聞いたことがある」
 僕が彼女をそう咎めると、「それもそうだね」と言って彼女は右手を顎に当てて何かを考える仕草をし始めた。
「ボートに乗りに行こう」
 何か言うのかとずっと思案中の彼女の発言を待っていると、何故かボートの誘いを受けた。
「いいけど急にどうして?」
「天気がいいから」
 彼女は歩き始めて、僕はその背中を追っていった。

 ボート場に向かう途中に前方から子供連れの親子が歩いてきた。母親と、小学校低学年くらいの娘。その少女の右手には赤い風船が握られていた。その風船は中にガスが入っているのだろうか、ふわふわと浮かんでいる。
 不意に少女の手から風船の紐がするっと抜けた。少女は慌てて風船を追いかけるが、間に合いそうにはなかった。
 僕の隣を歩く彼女が、急に勢いよくその風船に向かって走り出した。
 彼女は少女を追い越して、そのまま風船の直下あたりに来ると、膝を少し曲げて、そのまま跳躍して手を伸ばした。
 地上に降り立った彼女の右手には風船の紐がきちっと握られている。
「はい」
 彼女はにこやかにその風船を少女に差し出す。
 少女と母親は彼女にお礼を言ってそのまま去っていった。
「凄いね。よく届いた」
 僕は彼女に近づきふたりで歩きながら、思ったことを口に出した。
「絶対に手放したらいけないなって思って」彼女は息も切れ切れにそう言う。
「どうして?」
「あの赤い風船の中には、この世の中の最大幸福が詰まっていたかもしれないの」
 どう言うことなのだろうか考えていると彼女はそのまま続けた。
「あの風船の中には、多分ヘリウムガスかなんかが入っていると誰もが思っているんだろうけど、あの中って誰も見たことないじゃない? もしかしたらあの赤い膜の中に最大幸福が入っているという可能性もあるんだよ。そう考えたら全力で何が何でもとらなければと思って」
「最大幸福……」
「多分幸せっていうのは、見えていないだけで色々なところにあるんだと私は思うの。路地裏の奥とか、自動販売機の裏側とか、使っていない箪笥の二番目の引き出しとか。私はそういう幸せをひとつたりとも見逃したくはないんだ」

 ボート場でローボードを一艘借りて、僕と彼女は湖の上にいた。
 僕はもちろん、提案してきた彼女も乗るのは初めてでオールの操作に中々苦戦している。水面には日差しが降り注いできらきらと反射している。この湖のどこかに彼女の負の心が沈んでいるのに。
 水の上は心地よい風が吹いてくるのだということを初めて知ったような気がする。
 僕がオールを漕いでいるとき、彼女は幸せそうな表情を浮かべながら水面を見つめていた。
 彼女はボートから身を乗り出して何かをしていた。
「あんまり乗り出すと危ないよ」
「見て」
 彼女の方に顔を近づける。彼女は水面を指で弾いていた。
「ほら弾くと水が波打つの」
「波紋だね」
「そう。波紋」
 彼女は話しながらも何度も何度も水面を指で弾く。
「池に物を捨てるのも、波紋が好きだから?」
「そうだね。物を捨てて波紋が広がって徐々に消えていくでしょ? その波紋が完全に消えるのと同時に、私の嫌な部分も消えていく感覚があるの」
 彼女はなおも水面を指で弾いている。
 
 ボートから降りたあと、僕のバイトの時間が迫っていたので別れた。別れた後に彼女の名前すら聞いていないと言うことに気がついた。

 あれから何度か同じように時間を潰すために井の頭公園に行って彼女を何回か見かけた。なにも言葉は交わさなかったけれども、彼女は見るたびにやつれていっているような気がした。

 ある日を最後に彼女の姿は公園から完全になくなった。

 彼女を見かけなくなってずいぶん経ったあるとき、ふと考えた。
 自分を切り離すために自分の持ち物を捨てていた彼女はそれらをすべて捨ててしまったとき、最後になにを捨てるのか。
 答えは出なかった。

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